僕は今、25年前にもらったG-SHOCKをつけている。

僕の小学校入学祝いで叔父さんがプレゼントしてくれたもので、最近電池交換をし、何十年振りかにまた時を刻み出したG-SHOCKなんです。

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G-SHOCKで初めてセンサーを内蔵したG-SHOCK、DW-6100シリーズ。

現在は生産終了しているモデルで、特に市場価値が高いモデルというわけでもありません。

しかし、僕にとっては最高に価値あるモノです。



「モノより思い出」じゃない。「モノにも思い出」だ

モノより経験が大事という意味で「モノより思い出」という言葉が使われますが、モノそのものにだって、一時的な経験よりもはるかに深い思い出が刻まれることもある。

「モノより思い出」を否定する気はないけど、だからといって、モノが大事だった時代が終わるわけでもないでしょう。

「モノにも思い出」だってある。

仮に、G-SHOCKのDW-6100シリーズが今販売されていたとしても買うことはないと思う。

しかし、25年前に親族からプレゼントされ、自分と近しい時を過ごしてきた「DW-6100」は、僕にとって何にも代え難いかけがえのない存在です。

第三者から見ればかっこよくもないモデルかもしれませんが、そんなことどうでもいい。

僕にとって、こいつを腕につけることで、何か不思議な力が宿るような気がするんです。


このご時世、「モノより思い出」とか「モノよりコト」でしょ!って連呼されると、何者でもない人がやけになって言ってるようにしか聞こえません。

今さら斬新なことだとも思えませんし、そもそも「モノにも思い出」を体現していれば、どっちかがよくてどっちかがダメといった、二項対立な捉え方にはならないとも思います。

むしろモノを通して体現したことや原体験は、これからもずっと大事なんだと思います。

7歳から32歳の今も同じ時を刻み続けるG-SHOCKを見つめながらふと、こんな想いになりました。